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李信(信)の史実での活躍と最期|キングダム主人公の真実の生涯

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「キングダムの信って、本当に実在したの?」 「史実の李信は、漫画と同じような活躍をしたの?」 「李信の最期って、どうなったの?史実では記録されてないって本当?」

キングダムファンなら一度は疑問に思ったことがあるのではないでしょうか。主人公・信のモデルとなった李信(りしん)について、史実と漫画の違いを知りたいと思うのは当然のことです。

この記事を読むことで、あなたは以下のことが分かります:

✅ 李信が確実に実在した史実上の人物であることの証拠
✅ キングダムの設定と史実の李信の驚くべき違い
✅ 李信の史実での具体的な戦いと功績(燕太子丹討伐、楚攻略大敗、中華統一)
✅ なぜ李信の最期だけが史書に記録されていないのかの謎
✅ 李信の子孫たちの実在性と、唐王朝・李白との関係の真偽
✅ 史実を知ることで、キングダムをより深く楽しむための知識

本記事では、司馬遷の『史記』などの信頼できる史料を基に、李信の真実の生涯を詳しく解説いたします。史実を知ることで、キングダムの展開予想もできるようになり、作品をより一層楽しめることでしょう。

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目次

李信の史実と実在性|キングダム主人公の真実

結論:李信は史実に確実に記録された実在の秦将軍です。ただし、キングダムの設定とは大きく異なり、実際は武家出身の士族で、史書への登場も紀元前229年からと活動期間は8年間のみでした。

李信は実在した秦の大将軍

李信の実在性について疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、彼は間違いなく実在した人物でした。その証拠として、中国史上最も重要な歴史書の一つである司馬遷の『史記』に、その名前と活躍が明確に記録されています。

『史記』の「白起王翦列伝」や「刺客列伝」において、李信は秦の将軍として複数回登場しており、特に燕の太子丹討伐や楚攻略での活躍が詳細に記されているのです。司馬遷は李信と同時代を生きた人物ではありませんが、当時の記録や証言を丁寧に収集して執筆したため、その信憑性は非常に高いとされています。

李信の出身地は槐里(現在の陝西省咸陽市興平市)で、秦の都である咸陽から約30キロメートル離れた場所でした。興味深いのは、李信は武家の出身だったという点です。祖父の李崇は秦の隴西郡守を務め、父の李瑤も秦の南郡郡守として活躍していました。つまり、李信は代々秦に仕える名門武家の三代目だったのです。

史実の李信は「年が若く、勇壮であった」と記録されており、始皇帝からは「智勇が備わっている」と高く評価されていました。この若き将軍が、後に中華統一という歴史的偉業に重要な役割を果たすことになります。

史実の李信とキングダムの違い

キングダムファンの皆さんなら、信が下僕出身から成り上がる設定をご存知でしょう。しかし、史実の李信は実際には士族出身だったのです。この設定変更は、原泰久先生が物語をより劇的で感動的にするために行った創作だと考えられます。

史実の李信が史書に初めて登場するのは紀元前229年、王翦が趙攻略を行った際のことでした。この時、李信は別働隊として趙の太原・雲中方面に出征していたと記録されています。つまり、キングダムで描かれている幼少期から青年期にかけての信の活躍は、すべて原作者によるオリジナル創作なのです。

では、キングダムと史実の最も大きな違いは何でしょうか。それは李信の人物像です。史実の李信は確かに若き勇将でしたが、具体的な性格や人間関係については記録が残っていません。キングダムの信が持つ熱い友情や仲間想いの性格、そして王騎や麃公といった師匠との関係は、すべて漫画オリジナルの設定です。

また、飛信隊という部隊名も史実には存在しません。隊員たちの多くも創作キャラクターです。ただし、羌瘣(きょうかい)だけは史実に登場する将軍の名前を借りており、実際の羌瘣は男性の将軍だったと考えられています。

李信の史実での主要な戦い

李信の史実での活躍を時系列で見ていくと、その軍事的才能と同時に、若さゆえの判断ミスも見えてきます。彼の軍歴は、まさに成功と失敗を繰り返しながら成長していく武将の典型例と言えるでしょう。

最初の大きな活躍は趙攻略における別働隊指揮でした。この時、李信は王翦の本隊とは別に行動し、趙の北部地域を攻撃していました。具体的な戦果については記録が少ないのですが、燕の太子丹が「李信は太原・雲中に出撃している」と言及していることから、当時既に諸侯に名前が知られるほどの活躍をしていたと推測されます。

次に訪れた大きなチャンスが、燕の太子丹討伐でした。そして、この功績が李信の運命を大きく変えることになったのです。

燕太子丹討伐の詳細

紀元前227年、燕の太子丹が差し向けた刺客・荊軻による秦王政暗殺未遂事件が発生しました。この事件に激怒した秦王政は、翌年に報復として燕への大規模攻撃を開始します。

王翦率いる秦軍は燕の首都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東半島へ追いやりました。この時、李信は約1000騎を率いて燕軍を執拗に追撃する任務を与えられたのです。

李信の追撃は非常に激しく、代王嘉が燕王喜に「秦がこれほどまでに燕を激しく追い立てるのは、太子丹がいるからです」という手紙を送ったほどでした。最終的に、太子丹は衍水という川で李信によって討ち取られたとされています(一説では燕王が太子丹を殺して秦に献上したとも言われています)。

この功績により、李信は秦王政から絶大な信頼を得ることになりました。若き将軍の勇猛さと執念深さが、暗殺未遂事件の首謀者を確実に仕留めたのです。

楚攻略20万vs60万の判断ミス

太子丹討伐での成功に自信を深めた李信でしたが、次に待ち受けていたのは人生最大の試練でした。紀元前225年、秦王政は南方の大国・楚を攻略するため、諸将に必要な兵力について意見を求めました。

この時の有名なやり取りが、後の李信の運命を決定づけることになります。

秦王政:「楚を攻め滅ぼすには、どれほどの兵力が必要か?」 李信:「20万あれば十分です」 王翦:「60万は必要です」

秦王政は老将王翦の慎重すぎる意見を「臆病だ」と一蹴し、若き李信の意見を採用したのです。この判断が、後に歴史的大敗北を招くことになるとは、誰も予想していませんでした。

なぜ李信は20万という数字を提示したのでしょうか。おそらく、太子丹討伐での成功体験と、楚の国力を過小評価したことが原因だったと考えられます。また、始皇帝に気に入られたいという若い武将特有の功名心も影響していたかもしれません。

項燕による壊滅的敗北

李信と蒙恬は20万の軍を二手に分けて楚攻略を開始しました。緒戦では平輿や寝丘で楚軍に勝利し、さらに楚の重要拠点である鄢郢も攻め落としました。この時点では、李信の判断が正しかったように見えていたのです。

しかし、運命の転換点が城父で訪れました。李信と蒙恬が合流を図ったところを、楚の大将軍項燕(項羽の祖父)が三日三晩にわたって執拗に追撃したのです。この追撃戦で、李信の軍は壊滅的な打撃を受けました。

『史記』によると、楚軍は「二つの拠点に侵入し、都尉を7人討ち取った」とあります。都尉は軍の高級将校に相当する地位ですから、7人もの幹部を失ったということは、軍の指揮系統が完全に破綻したことを意味していました。

李信と蒙恬は命からがら秦に逃げ帰りましたが、この大敗北により秦王政は激怒。結局、楚攻略は王翦と蒙武(蒙恬の父)に60万の軍を与えて再度実行され、翌年に楚は滅亡したのです。

通常であれば、このような大敗を喫した将軍は処刑されるか、最低でも爵位剥奪となるのが秦の慣例でした。しかし、興味深いことに李信と蒙恬は処罰されませんでした。これは、秦王政の李信に対する信頼がいかに深かったかを物語っています。

李信の最期の謎と子孫の実在|史実が語る真実

結論:李信の最期は史実に記録されておらず、現在も謎に包まれています。中華統一後の紀元前221年以降の記録が一切なく、自然死説と粛清説が存在しますが、子孫が残っていることから自然死の可能性が高いと考えられます。

史実に記録されない李信の最期

李信の人生で最も謎に満ちているのが、その最期です。紀元前221年、李信は王賁・蒙恬と共に戦国七雄最後の一国である斉を攻め、これを滅ぼして中華統一を完成させました。しかし、この記録を最後に、李信は史書から完全に姿を消してしまうのです。

この記録の途絶は、歴史学者にとって大きな謎となっています。なぜなら、中華統一という歴史的偉業を成し遂げた主要な将軍の一人が、その後どうなったのか全く分からないという状況は極めて異例だからです。

始皇帝が死去したのは紀元前210年、そして秦が滅亡したのは紀元前206年でした。つまり、中華統一から秦滅亡まで15年間の空白期間があるわけですが、この間に李信がどのような人生を送ったのかは完全に不明なのです。

一方で、李信の同僚だった蒙恬の最期は明確に記録されています。蒙恬は始皇帝の死後、権力を握った趙高の陰謀により毒を飲んで自害するよう命じられ、絶望して生涯を閉じました。なぜ李信だけが記録から消えたのでしょうか。

【独自考察】なぜ李信の最期は謎なのか

李信の最期が謎に包まれている理由について、複数の仮説を検討してみましょう。まず考えられるのは、秦の短命政権と記録散逸の問題です。

秦は中華統一からわずか15年で滅亡したため、多くの公的記録が失われた可能性があります。特に、項羽が咸陽を占領した際に秦の宮殿や書庫を焼き払ったという記録もあり、李信に関する詳細な記録もこの時に失われたかもしれません。

次に考えられるのが、李信が趙高の大粛清を生き延びた可能性です。趙高は始皇帝の死後、自身の権力を維持するために多くの将軍や大臣を粛清しました。しかし、李信について処刑の記録がないということは、何らかの理由で粛清を逃れた可能性があります。

興味深いのは、李信の息子である李超が漢の大将軍になったという記録があることです。もし李信が趙高に処刑されていたなら、その息子が敵対勢力である漢で重用されることは考えにくいでしょう。これは、李信が自然死した可能性を示唆しています。

他の将軍との比較分析をしてみると、李信の特殊性が浮かび上がります。王翦は楚攻略後に引退を願い出て郷里に帰り、王賁も斉攻略後の記録は曖昧です。これらの将軍たちは、政治的な混乱を予見して早めに第一線から退いた可能性があります。李信も同様に、中華統一後は政治から距離を置いて隠遁生活を送ったのかもしれません。

李信の子孫たちの実在と活躍

李信の子孫については、確実な記録と疑わしい記録が混在しているのが現状です。最も信憑性が高いのは、息子の李超に関する記録でしょう。

『新唐書』によると、李超は漢の大将軍・漁陽太守になったとされています。ただし、この記録は李信の時代から1000年以上後に書かれたものなので、完全に信頼できるとは言えません。しかし、李超が秦滅亡後に漢に仕えたという話は、政治的な現実性を考えると十分にあり得る話です。

李信から5代後の子孫とされる李広は、漢の名将として「飛将軍」と称されました。李広と李信の血縁関係については、司馬遷の『史記』にも明記されており、信憑性は高いと考えられます。李広は匈奴との戦いで70回以上の戦闘を経験し、その勇猛さは敵である匈奴からも恐れられていました。

一方、唐王朝の李淵や李世民、詩人の李白が李信の子孫だという話については、現在の歴史学では疑問視されています。唐王朝の李氏は実際には鮮卑族出身で、権威付けのために李信の血筋を名乗った可能性が高いとされているのです。李白についても、そもそも漢人ではないという説があり、李信との血縁関係は後世の創作である可能性が高いでしょう。

李信年表|史実でわかる生涯

李信の生涯を年表形式で整理すると、その活動期間の短さに驚かされます。史実に記録された李信の活動期間は、わずか8年間だったのです。

紀元前229年:史書初登場(趙攻略) 王翦の趙攻略時に別働隊として太原・雲中に出征。この時点で既に将軍クラスの地位にあったと推測される。

紀元前226年:燕太子丹討伐 荊軻による暗殺未遂事件の報復として燕を攻撃。約1000騎を率いて太子丹を執拗に追撃し、最終的に討ち取る。この功績により始皇帝の絶大な信頼を獲得。

紀元前225年:楚攻略大敗 20万の軍を率いて楚攻略を実行するも、項燕の追撃により壊滅的敗北。命からがら秦に逃げ帰る。通常なら処刑されるところ、なぜか処罰されず。

紀元前222年:燕滅亡 王賁と共に遼東に逃れていた燕王喜を攻撃し、燕を完全に滅ぼす。さらに代王嘉も捕らえて代を滅亡させる。楚戦での汚名を返上。

紀元前221年:斉滅亡・中華統一 王賁・蒙恬と共に戦国七雄最後の一国である斉を攻め、これを滅ぼす。秦による中華統一が完成。李信にとって最後の記録。

以降:記録なし 中華統一後の李信については、一切の記録が残されていない。死去の時期や原因も不明。

この年表を見ると、李信の活躍期間がいかに短く、そして濃密だったかが分かります。特に注目すべきは、楚戦での大敗後わずか3年で名誉を回復し、中華統一の立役者となった点でしょう。

キングダムファンが知るべき史実の真実

キングダムファンの皆さんが最も気になるのは、李信が本当に大将軍になれたのかという点ではないでしょうか。この答えについて、史実を基に検証してみましょう。

史実の李信が「大将軍」という正式な官職に就いたかどうかは、実は明確ではありません。『史記』では李信を「将軍」と記しており、「大将軍」という記述は見当たりません。ただし、20万という大軍を任されたことや、中華統一の最終戦を任されたことを考えると、実質的には大将軍クラスの地位にあったと考えて良いでしょう。

楚戦敗北後の寛大な処分についても、多くの謎が残されています。秦の法は非常に厳格で、失敗した将軍は容赦なく処刑されるのが常でした。それにも関わらず、李信が処罰されなかった理由として考えられるのは以下の通りです。

まず、始皇帝の李信に対する個人的な信頼が挙げられます。太子丹討伐での功績により、李信は始皇帝のお気に入りの将軍となっていました。また、楚戦の敗因が李信個人の無能さではなく、敵の想定以上の抵抗にあったという判断もあったかもしれません。

さらに、当時の政治的状況も影響していたでしょう。楚攻略は秦にとって最重要課題であり、有能な将軍を処刑して戦力を削ぐよりも、経験を積ませて再起を図る方が得策だったのかもしれません。

中華統一における李信の真の貢献度について評価すると、確かに楚戦では大敗しましたが、燕の完全制圧と斉の滅亡は李信の功績と言えるでしょう。特に斉攻略では、他の主要将軍である王賁・蒙恬と並んで名前が記されており、李信が最後まで重要な役割を担っていたことが分かります。

『史記』における李信の評価

司馬遷は『史記』において李信を「年が若く、勇壮であった」「智勇が備わっていると評価されていた」と記しています。しかし、同書では「秦の天下統一は王氏と蒙氏の功績が特に大きく、その名は後世にまで伝えられている」とする一方で、李信については特筆していません。

これは、司馬遷が李信を優秀な将軍とは認めつつも、王翦や蒙恬ほどの歴史的重要性は認めていなかったことを示しています。楚戦での大敗が、李信の歴史的評価に大きな影響を与えたのかもしれません。

始皇帝からの信頼度の証拠

李信が始皇帝から特別な信頼を得ていた証拠は複数あります。まず、太子丹討伐という重要な任務を任されたこと、楚攻略の総大将に抜擢されたこと、そして大敗後も処罰されなかったことが挙げられます。

また、中華統一の最終戦である斉攻略にも参加していることから、始皇帝は最後まで李信を信頼していたと考えられます。これは、当時の政治情勢を考えると非常に異例のことでした。

現代史学での再評価

現代の歴史学者は李信を「失敗から学び、成長した将軍」として再評価する傾向にあります。楚戦での敗北は確かに大きな失敗でしたが、その後の活躍を見ると、この経験が李信の成長に大きく寄与したことが分かります。

また、李信の人生は「若さゆえの過信と、それを乗り越える成長」という普遍的なテーマを体現しており、現代でも多くの人に教訓を与える人物として注目されているのです。

李信の史実と最期|実在した将軍の真実まとめ

本記事で解説した李信の史実と最期について、重要なポイントを以下にまとめます:

李信の実在性と史実について

  • 李信は司馬遷の『史記』に明確に記録された実在の人物
  • 槐里出身の武家三代目で、下僕出身ではない
  • 史書への登場は紀元前229年からで、活動期間はわずか8年間
  • キングダムの設定とは大きく異なる出自と経歴

李信の最期と子孫の真実について

  • 紀元前221年の中華統一後、史実から完全に記録が途絶える
  • 最期については自然死説と粛清説が存在するが、子孫が残っていることから自然死の可能性が高い
  • 息子・李超が漢の大将軍になったとされるが、記録の信憑性には疑問も
  • 名将・李広との血縁関係は『史記』にも記載があり、信憑性が高い
  • 唐王朝や李白との系譜関係は後世の創作である可能性が高い

李信の史実での評価

  • 燕太子丹討伐と中華統一への貢献は確実な史実
  • 楚攻略での大敗北も歴史的事実だが、その後の名誉回復も実現
  • 始皇帝からの特別な信頼を最後まで保持していた稀有な将軍

李信の史実での生涯は、まさに光と影が交錯する激動の人生でした。キングダムという素晴らしい作品を通じて李信を知った皆さんにとって、史実の李信もまた魅力的な人物として映ったのではないでしょうか。史実の李信は、確かに実在した中華統一の立役者の一人なのです。

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