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【キングダム】桓騎の史実を徹底解説!最期の死因や10万人斬首の真相とは?

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漫画『キングダム』の中で、圧倒的な存在感とカリスマ性で読者を魅了し続けたキャラクターといえば、元野盗の六大将軍・桓騎(かんき)ですよね。

冷酷無比でありながらどこか人間味があり、仲間を誰よりも大切にする彼の姿に、胸を熱くしたファンも多いはずです。コミックスの展開で描かれた彼の壮絶な最期は、まさに伝説となりました。

しかし、ここで一つ大きな疑問が浮かびます。

「本物の歴史、つまり『史実』における桓騎はどのような人物だったのだろう?」

実は、歴史書に記録されている桓騎(史実での表記は「桓齮」)は、漫画に負けないくらい謎に包まれた、とてもミステリアスな武将なのです。

この記事では、検索エンジンでの上位を目指しつつ、中学生のあなたにもわかりやすく、桓騎の本当の姿や10万人斬首の真実、および歴史書によって異なる2つの最期について、徹底的に分かりやすく解説していきます!

目次

キングダムの桓騎の史実!知られざる謎と本当の姿

『キングダム』の物語をさらに深く楽しむためには、まずモデルとなった実在の人物「桓齮(かんき)」が、歴史上でどのような活躍をしたのかを知ることが近道です。ここでは、彼の驚くべき正体と、実際に起こした大事件について迫っていきます。

桓騎は本当に野盗?史実の出身や経歴の謎

結論からお伝えしますと、史実における桓騎が「元野盗の首領だった」という記録は、どこにも存在していません。

なぜなら、彼が歴史の表舞台に登場する前のプライベートな記録が、完全に白紙だからです。古代中国の歴史書である『史記(しき)』を開いてみても、紀元前237年に突然「秦の将軍になった」とだけ書かれており、彼がどこの生まれで、若い頃に何をしていたのかは1つも判明していません。

もし彼が名門の貴族だったなら、家系図などの記録が少しは残っているはずですよね。それが一切ないということは、漫画のように「身分の低い場所から、自分の腕っぷし一つで将軍まで成り上がった人物」であった可能性が、極めて高いと考えられます。このように歴史に「空白」が多い人物だからこそ、原泰久先生は「元野盗のカリスマ」という魅力的な設定を作り出すことができたのでしょう。

伝説は本当!10万人を斬首した平陽の戦い

桓騎といえば、敵の捕虜を一切許さずに命を奪う、恐ろしい「首切り」のイメージが強いのではないでしょうか。実は、この耳を疑うような残虐なエピソードは、創作ではなく完全な史実です。

歴史の記録によると、紀元前234年、桓騎は趙(ちょう)という国の「平陽(へいよう)」と「武遂(ぶすい)」という場所を攻めました。そこで趙の総大将だった扈輒(こちょう)という将軍を討ち取り、なんと敵の兵士「10万人の首をはねた」とはっきりと書かれています。

実際に、中国最古の公式な歴史書である『史記』の「秦始皇本紀(しんしこうほんき)」には、「(秦王政十三年に)桓齮は趙の平陽を攻め、趙の将軍である扈輒を討ち取り、10万人の首をはねた」という内容がはっきりと記録されています。

(参考:中国哲学書電子化計画『史記』秦始皇本紀

中学生の教科書にも出てくるような大きな戦いですが、10万人という数は、現代で言えば地方のちょっとしたドーム球場を何個も満員にできるほどの人数です。なぜこれほどの大量虐殺を行ったのか、歴史書にはその理由は詳しく書かれていません。ただ、この冷酷極まりない一撃によって、趙の国全体が秦国に対して激しい怒りと恐怖を抱くようになったことは間違いありません。

漫画と違う?李牧に大敗した肥下の戦い

快進撃を続けていた桓騎ですが、ついに人生最大の壁にぶつかることになります。その壁こそが、趙の天才軍師である大将軍・李牧(りぼく)です。

紀元前233年、桓騎はさらなる勝利を求めて趙の深いところまで攻め込みますが、これを予測していた李牧の巧妙な罠にはまってしまいました。これが、歴史に名高い「肥下の戦い(ひかのたたかい)」です。この一戦で秦の軍隊は完全に包囲され、なすすべもなく大敗を喫してしまいました。

漫画『キングダム』では、桓騎が李牧の喉元まであと一歩と迫り、仲間たちを守りながら美しく散っていく姿がドラマチックに描かれましたよね。しかし、史実におけるこの戦いは、もっと一方的な大敗だったと言われています。名将・李牧の圧倒的な守備力の前に、それまで無敗を誇っていた桓騎の戦術が完全に破られた瞬間でした。

キングダムの桓騎の史実!最期の死因と驚きの結末

李牧に敗れたあと、桓騎は一体どうなってしまったのでしょうか。驚くべきことに、その「最期」については、当時の歴史書によって全く異なる2つの結末が記録されているのです。

説①:李牧に討ち取られて戦死した最期

1つ目の結末は、戦場で敵に討ち取られて命を落としたという、非常にわかりやすい最期です。

これを記録しているのは、当時の政治家たちの駆け引きや戦いをまとめた『戦国策(せんごくさく)』という書物になります。この本の中には、「李牧が秦の将軍・桓齮を打ち破り、彼を殺した(討ち取った)」という内容がはっきりと書かれているのです。

当時の国々の戦いや策略を記録した書物『戦国策(趙策)』のなかには、「李牧がたびたび秦の軍勢を破り、秦の将軍・桓齮を殺した」と記されている一行があります。

(参考:中国哲学書電子化計画『戦国策』趙策

もしこの記録が正しいのだとすれば、桓騎は肥下の戦いの最中、またはその直後に趙の軍勢によって命を奪われたことになります。漫画のラストシーンと同じように、大好きな仲間たちと共に戦場に骨を埋めたという結末は、武将としてある意味では最も自然な終わり方だったと言えるでしょう。

説②:敗北した後にどこかへ逃亡した最期

2つ目の結末は、戦いから生き延びて、どこか別の国へと逃げ延びたという、驚きの逃亡説です。

中国の最も公式な歴史書である『史記』には、肥下の戦いについて「桓齮は敗走した(負けて逃げた)」とだけ記録されています。つまり、戦死したとは書かれておらず、この敗戦を最後に、秦の歴史からパタリと彼の名前が消えてしまうのです。

当時の秦国には、「商鞅(しょうおう)の法」と呼ばれる、信じられないほど厳しい法律がありました。戦争で大敗を喫した将軍には、帰国後に死刑などの重い罰が待っているのが普通だったのです。そのため、敗北した桓騎が自分の命を守るために、秦国を捨ててどこか遠くの国へ亡命したと考えるのは、非常に理にかなっています。

歴史書「史記」と「戦国策」はどっちが正しい?

「死んだ」と「逃げた」、この2つの正反対な記録のどちらが正しいのかについては、現代の優秀な歴史学者たちの間でも、いまだに答えが出ていません。

本としての信頼性だけで言えば、国の公式記録として編集された『史記』の「逃亡説」が正しいと言われることが多いです。しかし、ドラマチックなエピソードを多く集めた『戦国策』の「戦死説」も、当時の人々の間で強く信じられていた噂話が元になっているため、完全に嘘だと言い切ることはできません。

もしあなたが当時の秦国の役人だったなら、どちらの情報を信じるでしょうか。このように、結論が1つに決まっていないからこそ、私たちは2000年以上前の出来事にロマンを感じ、想像を膨まませることができるのです。

桓騎は闇落ちした正義の味方だった?

ここからは、当ブログだけのオリジナルな視点での考察をお届けします。史実で「10万人を斬首した」とされる桓騎は、本当にただの残酷な悪魔だったのでしょうか。実は、彼は「不条理な世界に対する、激しい怒りを抱えた正義の味方」だったのではないか、とも考えられます。

当時の中国は、強い者が弱い者を当たり前のように踏みにじる、とても理不尽な時代でした。漫画の中でも、彼は「綺麗事を言う普通の大人が、一番身勝手で残酷だ」という趣旨の発言をしています。

もし他が単なる快楽のために人を殺する悪人だったなら、部下たちがあれほど彼を慕い、命をかけて守ろうとするはずがありません。彼の大虐殺は、自分を都合の良い駒として利用しようとする秦の王様や、平和を歌いながら戦争を止めない世界全体に対する、彼なりの「怒りの表明(デモンストレーション)」だったのかもしれません。ルールに縛られて苦しむ人々を、最悪の方法で解放しようとした「闇落ちしたヒーロー」としての姿が、史実の残虐行為の裏側に見え隠れしているような気がしてなりません。

ロマン溢れる噂!燕に逃げて樊於期になった説

最後に、歴史ファンの間で最も人気がある、映画のようにワクワクする説をご紹介しましょう。それは、李牧に敗れて逃げ亡びた桓騎が、名前を変えて「樊於期(はんおき)」という別の将軍になった、という仮説です。

樊於期は、秦の始皇帝(嬴政)を激しく憎み、後に「燕(えん)」という国へ逃げ込んだ実在の将軍です。後に、燕の太子から「始皇帝を暗殺してほしい」と頼まれた刺客・荊軻(けいか)が、始皇帝を油断させるための手土産として「お前の首が欲しい」と言ったとき、樊於期は復讐のために喜んで自分の喉をかき斬り、自分の首を差し出しました。

もし「桓騎 = 樊於期」だったのだとすれば、李牧に敗れた後も彼は生き残り、最期は自分の命と引き換えに始皇帝に一矢報いようとしたことになります。

この魅力的な同一人物説は、中国の非常に高名な歴史学者である「楊寛(ようかん)」という人物が、その著書『戦国史』のなかで大真面目に提唱した学説です。日本の大学や研究機関が共同で運営している学術論文データベースでも、この仮説に関する研究論文や当時の言語的な背景を裏付ける資料が数多く検索・参照されています。

(参考:CiNii Research(国立情報学研究所 学術文献データベース)

言語学的な視点(当時の漢字の発音が似ていること)からもこの説は長年議論されてきましたが、現在の歴史研究では、2人は別々の人間であるとする意見が有力です。しかし、もしそうだったとしたら……と考えずにはいられない、あまりにも美しい復讐のロマンがそこにはあります。

キングダムの桓騎の史実!知られざる謎と最期のまとめ

今回の記事でご紹介した、キングダムの桓騎における史実の重要なポイントは以下の通りです。

  • 【知られざる謎と本当の姿】出自不明で野盗の記録はないものの、10万人斬首や李牧への大敗はすべて歴史上の事実である。
  • 【最期の死因と驚きの結末】当時の歴史書によって「戦死」と「逃亡」の2つの記録があり、別人の「樊於期」になったというロマン溢れる説も存在する。

何もない「空白」の歴史だからこそ、原泰久先生の天才的な想像力によって、あのような魅力的な「桓騎」というキャラクターが誕生したのです。史実の謎を知った上で改めて漫画を読み返してみると、また新しい感動や発見があるかもしれませんね!

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